サラエボ/ボスニア・ヘルツゴビナ

2014年4月4日5日
サラエボへの道のりは長かった〕
 4日6:15チョメルの自宅を出発。高速6号線でモハーチからウドヴァールで国境通過。クロアチア入国。12:15オーシエクからマナラの国境通過。ボスニア・ヘルツゴビナ入國。国道1-8号線を一路サラエヴォへ。国道は一車線。アップダウン、カーブの連続。日本の道路そのもの。追い越しもままならず、前に速度の遅いトラックが走っていれば直ぐに長い車列に。サラエボ市内に入ってからはカーナビが使えず、ホテルを探すのにまたまた時間が掛かる。最後はタクシーに7ユーロ支払って誘導を頼む。17:15この日の宿泊のHotel Heccoにチェックイン。Csömörの自宅を出発して11時間。ホテルは旧市内に近い便利なロケーション。夕食は旧市内のレストラン。この国はひき肉料理が名物。ワインは安く美味しい。



サラエボには戦争の傷跡が〕
5日、徒歩でサラエボ市内観光へ。サラエヴォは標高約550m。周囲は山に囲まれた盆地。印象に残るのは▽イスラム教寺院はモスクを持った寺院。モスクが目立つ街。▽建物には今だサラエヴォ包囲戦争の銃弾跡が残る。2003年の「地球の歩き方」には市内にもまだ地雷や爆発物が残っている、との記述がある。▽物乞いが多い。特に両替所、現金支払機のあたりに多い。▽物価は安い。ブダペストの半分位?▽英語はハンガリーより通じる。

国立国会図書館

カトリック大聖堂

銃弾跡の残る建物はあちこちに
〔パチャルシャ〕
旧市街にある職人街。食器、ガラス製品、指輪、アクセサリー、革製品などの土産物屋が多い。セボリ(水飲み場)の広場は最もにぎわう場所。


水タバコ飲み場(イスラムの影響)
右側の六角形の建物がセボリ

サラエヴォ事件現場〕
今から100年前、1914年々の第1次世界大戦はセルビア人フランツ・プリンツィブがオーストリア=ハンガリー帝国のフェルディナント皇太子夫妻を暗殺したことに端を発する。事件の舞台となったラテン橋はミリヤッカ川に掛かる長さ10Mの美しい石橋。橋の近くには事件を分かり易く解説している博物館もある。パネルやビデオの解説に加え、当時の軍人の制服、剣、ピストルなどが展示されている。皇太子夫妻の乗っていたオープンカーはウイーンの軍事史博物館に現存する。



サラエヴォ博物館
皇太子夫妻暗殺に使われた手榴弾とピストル
サラエヴォ冬季オリンピック施設と墓地〕
街の中心から車で10分ほどの地区にオリンピック施設が残されている。アイスアリーナ、オリンピックスタディディアム、聖火台などが残るが、どの施設も元気がない。ボスニア・ヘルツゴビナ紛争の一戦闘=サラエボ包囲(1992年4月〜1996年2月、死者12、000人、負傷者50,000人)の悪影響が今も残ることの証と思われた。その際たるものがオリンピックスタジアムの補助グランドに作られた墓地である。サラエヴォ背包囲線の最中、セルビア人勢力によって狙撃され、爆撃さらた犠牲者の墓である。街から30Kmのヤホリナ、イグマンにはアルペンスキーやノルディック競技の施設が残されている。然しイグマンに残されているスキーのジャンプ台(70m級、90m級)は近年使用されているとは思われない。朽ちるままに放置されているのではなかろうか。




選手村跡?現在は分譲マンション

レストランPricaに残るオリンピック記念品パネル