ヨーロッパコンサート〜洞窟コンサート A市T.Kさんのレポート

2009年8月18日19日
「ねぇ、ショプロン行かない?(汎ヨーロッパ)ピクニック、国境近くを歩いて、で、洞窟でコンサートもあるのだって。面白そうじゃない?」私は即答した。
「うん、面白そう。行く。」ショプロン、国境、洞窟コンサートという言葉は、ミーハーな私に行くと即決させるに十分だった。ショプロンでピクニックして、コンサート♪なんて思っていた。
さて、その後「汎ヨーロッパピクニック」という言葉に活字で出会うことになる。そこにはこう書いてあった。
ベルリンの壁崩壊はショプロンで始まった」「ブランデンブルグ凱旋門の立っている土はハンガリーのそれである」
??さっぱりわからなかった。ベルリンの壁崩壊とショプロン(ハンガリー)がどう関係あるのか。さっそくインターネットで「汎ヨーロッパピクニック」を調べてみる。そんなことがあったのか、、、しかし、それは私にとって身近なものではなく、あくまで歴史の1ページとして落ち着いてしまった。
後日送られてきたプログラムを見ると、20周年ということもあり、何かすごい。なんだこれは?合唱団が日本から来る?なぜ?私、行っていいの?急に超場違いなところへ行く気がした。わたしは若干の不安と疑問を抱えたまま、ショプロンへ向かった。

国境ハイキング出発前

トラバント=ピクニック計画当時の車
国境ウォーキングは朝早かったので私と友人は前日ショプロン入りし、まずはSoproniビールとワインを楽しんだ。翌朝は8時すぎにショプロンホテルに集合。ロビーには100名近くの日本人がいた。ハンガリーに来て半年、こんなにたくさんの日本人に会ったのはもちろん初めて。しかも、大半の方がどうやら関西人。大阪人の私は久しぶりに関西弁のシャワーを浴び、テンションが上がった。ホテルから2台のバスに乗り込みウォーキング開始地点へ向かった。そこには、まだ背の低い植林が並ぶ草原が広がっていた。風が気持ちいい。ここから歴史は動いたのか。自由を求め国境を渡った。そこに立つと何だか不思議な気持ちになった。国境公園を約1時間のウォーキング、木漏れ日がなんとも気持ち良かった。ゴール地点には世界遺産、ノイジイ―ドラー湖が広がっていた。

ハンガリー/オーストリアの国境。かつてここに鉄条網が敷設されていた。つい最近までは検問所があって自由には行き来できなかった。

ウオーキングの参加者

ゴール地点にはノイジイ―ドラー湖が広がっていた。
午後には日本庭園開園式があり、そこで「荒城の月」が歌われた。日本の合唱団の皆さんの出番だ。歌がはじまった瞬間、空気が一瞬にして澄んだようなそんな感覚があった。思わず、息を止めている私がいた。歌ってすごい。大きな拍手がおこった。ただの大阪のおばちゃんとおっちゃんじゃなかった。


洞窟コンサートは2日目の夜だった。各国要人が来るということで、私達が滞在しているホテルには大勢の警官、SPが配置された。このイベントの大きさを再認識した。事実ショーヨムハンガリー大統領、メルケルドイツ首相もコンサートで挨拶した。
夕刻、コンサート会場である洞窟劇場へ向かった。私はスーツを着て客席にいた。満席だった。要人の姿が見える。ほぼ定刻通りコンサートは始まった。素晴らしかった。特に、第九の合唱は、本当に素晴らしく、感動だった。指揮は守山俊吾さん、オーケストラはジュール交響楽団ソリスト、合唱団は日本、ドイツ、ハンガリー人で構成され、日本からは約100人の合唱団が参加した。
第四楽章、バリトンの三原剛さんの歌声で始まると、会場は一層緊張に包まれた。ボキャブラリーが乏しく他に言葉が見つけられないが、本当に素晴らしかった。何かこみ上げるものがあり、心に響いた。鳥肌がたった。ステージに立った合唱団の方々はさっきまで気さくに話していた人たちとは思えないほど、無茶苦茶格好良く、誇らしく思えた。合唱が終わると、会場は大きな拍手に包まれた。スタンディングオベーション。ステージから下りてきたひとりずつに、抱きつきたいくらいだった。

打ち上げパーティーで挨拶する守山さん
興奮さめやらず、ホテルに戻り、打ち上げパーティが行われた。皆、幸せそうで、私も幸せな気分だった。このイベントの発起人である糸見さんのスピーチを聞くまでは。彼女は言った。
「国境公園の桜の木が切られました。」日本からの寄付で植樹された桜の木が今回の20周年を記念して造られたモニュメント設置に邪魔だったとかで、断りもなしに切られてしまったというのだ。私は、その時その桜の木にどんな歴史があるのか知らなかったけれど、それでも胸が痛かった。なぜ?どうしてそんなことが出来るのか。ただ、悲しい気持ちになった。会場の雰囲気は一変した。通訳として参加していた若いハンガリー人女性が言った。
「桜の木のことを聞いて、本当に驚いています。私も本当に残念です。このままではいけない。何とかしないと。」少し救われた気がした。ハンガリー人にも同じ気持ちのひとがいる。私は少し複雑な気持ちで会場、そしてショプロンを後にした。
帰ってから、このイベントについて、さらに調べずにはいられなかった。日本人がどう関わっているのか、そして桜の木について。調べると、涙がこみあげてきた。ここにそれについてはあえて書かないでいようと思う。もし、この事件そしてイベントについて知らない方がいたらぜひ自分で調べてほしいと思う。ハンガリーに来なければこの事件、イベントを知ることは一生なかっただろう。そして考えることもなかっただろう。始まりは、単なるミーハー心からだったが、この旅行は私にとって大きなものになった。平和と、いつかあの公園で再び桜の木を見られる日が来ることを願わずにはいられない。